ナレーション:第9話で現場が暴いたのは、A5051 t1.0・段曲げ高さ12mmの量産品で起きた、Y方向穴ピッチ+0.4〜+0.56mmのズレ。
図面も金型精度も「交差内」。それでも現物は狂う。
原因は—段曲げのわずかな逆傾きを残したまま、穴あけ工程でストリッパが押圧。
その瞬間、ワークは前後に微小滑り、抜いた後の除荷で元の姿勢に戻る。結果、穴だけがズレて残るという“図面の外側”の現象だった。
対策は単純で、難しい。
ストリッパとダイで段部を挟持し、段角度・高さを微調整、前工程の姿勢を確実に安定化させる。
それだけで、ピッチは正直に収まった。
この件で、アストロ工業に一つの合言葉が残る。
「交差内でも、安心するな。」
不具合は図面の外で生まれ、「異常なし」という言葉の中で育つからだ。
そして、その余韻が消えないうちに、次の案件が転がり込む。
空想ノイローゼズ社からの新規受注部品【ピウナー】。
「傷はダメ、打痕もダメ、でもコストは据え置き」そんな空気を添えて。
しかも間に立つのは、あの極東サクシュ商事・閉(へい)。
電話の第一声で、ケニは直感する。また図面の外側と戦う時が来た、と。
登場人物たち
- ケニ:金型グループ主任。現場の嗅覚で交差内の異常を嗅ぎ分ける。
- スチール猫:ボケ担当。茶化すほど核心を突く。
- トワ(スチールカピバラ):参謀。冷静な切り口で因果を縫い合わせる。
- 佐倉 航:若手。前話の学びを胸に、観察の精度が一段上がった。
- 技術部長:前回の反省を抱えつつ、現場寄りに舵を切り始めた。
- 生産部長:数とタクトの番人。良くも悪くも現実主義。
- 品証部長:条文と報告書の守護者。言葉より現物を見せろ派に変われるか試され中。
- 閉(へい)@極東サクシュ商事:要望をそのまま投げ返す営業。火に油を注ぐ名人。
- 空想ノイローゼズ社:妄想先行の電機メーカー。外観要求は霞のように厳しく、油断してると要求が増えて行く、骨までしゃぶる顧客としても業界では名高い。
ナレーター:アストロ工業の朝は、油と鉄粉の匂いで始まる。
その空気の中で、社長の声が響いた。
「新しい取引先、空想ノイローゼズ社。絶対に失敗できんぞ。最初の仕事だ。顔を作る気でいけ。」
受注部品名は「ピウナー」。
タイ語で「顔の皮膚」を意味する。
まさに―この仕事が、アストロの顔になる筈。
だがこの案件、皮膚どころか魂まで削ぎ落とす試練となるとは、そのとき誰も知らなかった。
Scene 1:金型検討会 ― 問題なしから地獄は始まる
会議室。
技術部長、生産部長、品証部長。
そしていつもの三人―ケニ、スチール猫、トワ、佐倉航。
オンラインで金型メーカーも参加していた。
図面を開いた瞬間、ケニの眉が動いた。
ケニ:「……箱曲げで、最後は切曲げ。細長い長穴。材料SUS430で薄板0.2㎜。傷、確定コースだな。」
技術部長:「見たところ、交差も緩いし、問題ないだろう。」
スチール猫(両手を広げ):「問題ないって言葉は、現場じゃ地雷確認済みの合図にゃ!」
トワ(皮肉気に):「問題ないとは、まだ爆発していないという意味だな。」
ケニは図面をじっと見つめる。
彼の頭の中では、すでに金属が悲鳴を上げていた。
ケニ:「パイロットが食いつく。剥がし圧が強すぎる。剛性よりバランスだ。」
技術部長:「理想を追えば自然と形になる。それが設計だ。」
トワ:「理想を追って、空想になる。会社の名前は正直だな。」
スチール猫:「空想ノイローゼズって名前、すでにヤバいにゃ!」
皆が笑った。
だがケニだけは笑えなかった。
図面が歪んで見えた。―未来の災厄のように。
Scene 2:トライ ― 呼ばれぬ者、呼ばれぬ真実
数日後。
技術部長が軽い調子で言った。
「ケニ、例のピウナーのトライ、終わったぞ。オペレーターに聞いとけ。」
ケニ:「……俺、呼ばれてませんけど。」
技術部長:「ああ、現場で問題なかったから大丈夫だ。」
(ナレーション)
問題なかったという言葉ほど、危険な保証書はない。
現場へ向かったケニを、プレスオペレーターが迎えた。
オペレーター:「あっ、バッチリっすよ!ちょっとストローク下げすぎると、下に食いつくけど!」
ケニ:「……それ、もう問題だよ。」
スチール猫:「問題ないって、気づかないことに成功したって意味にゃ!」
トワ:「それを『安定』と呼ぶ文化が、人間社会を滅ぼすんだ。」
ケニは黙り、金型を見つめた。
まだ、何かが―動いていない。
だがそれは静かな地雷だった。
Scene 3:空想ノイローゼズ社の審判 ― 汚いステンレス事件
数日後、営業課から地鳴りのような声が響いた。
「ケニ!クレームだ!空想ノイローゼズ社が汚れたピウナーって怒鳴ってる!」
会議室。
三羽ガラスとケニが集まる。
生産部長:「ロールフィーダーの痕がダメだとさ。」
品証部長:「打痕もNG。表面が光ってるのに、キズがあるのは許されないって。」
ケニ:「……理屈がもう宗教だな。」
トワ:「信仰の対象は無傷。つまり無垢な幻想。」
スチール猫:「俺、爪研いだだけで出禁にゃ!」
そこに現れたのが、極東サクシュ商事の営業マン――閉(へい)。
艶のあるスーツに、砂糖漬けのような笑顔。
閉:「あ、皆さん、落ち着いてください。お客様の指示はサンプル同等でOKです。」
ケニ:「そのサンプルを見せろ。」
閉:「はい、こちらです。」
ケニ:「……錆びてるじゃねぇか。」
トワ:「これ、考古学的展示物だな。」
スチール猫:「にゃー、これのどこがOKサンプルなんだ。『経年美』ってことかにゃ?」
閉(眉一つ動かさず):「品質とはお客様が満足することですから。」
ケニ:「それは理想じゃない。責任放棄だ。」
トワ:「閉(へい)という名前はよく出来てる。閉ざす人間だ。思考も、誠意も。」
スチール猫:「心のストリッパーにゃ!全部脱がされて丸裸!」
笑いが起きたが、その空気の下には怒りがあった。
現場の努力を、紙一枚で踏みにじる男。
その瞳の奥に、数字以外の感情は存在しなかった。
Scene 4:対策と錯覚 ― エアフィーダーの奇跡
ケニ:「もうロールフィーダーは終わりだ。エアで送る。」
生産部長:「予算外だぞ。」
ケニ:「じゃあ、破産か、名誉か、どっちを取る?」
議論は紛糾したが、最終的に導入が決まった。
中古のエアフィーダー。
昭和の残り香がする鉄の塊。
初日は不調。
二日目、ワークが斜めに送られる。
三日目――完璧に動いた。
ストロークがリズムを刻む。
SUS430が、まるで踊るように滑り込む。
材料の表面が光り、現場に歓声が起こった。
佐倉航:「やった……傷と痕が、ない!」
スチール猫(目を細め):「無傷の猫は存在しないけど、今日は奇跡にゃ!」
トワ(静かに):「奇跡とは、努力が偶然に勝つ瞬間のことだ。」
ケニ:「……ピウナーが、やっと息をした。」
その夜、全員が安堵した。
だが―ケニだけは天井を見つめていた。
「空想ノイローゼズは、これで終わらせない。」
その予感は、見事に的中した。
ナレーション:地獄の幕が開く
数日後、再びメールが届く。
件名:【再検討要請】ピウナー製品表面に微細キズ。再度の是正を要す。
スチール猫:「もう無理にゃ!空気中のホコリまで敵にする気かにゃ!」
トワ:「理想が高すぎると、現実を敵視する。宗教と同じ構造だ。」
ケニ:「傷が目立たなくなった分、客の欲が見えてきた。」
閉(へい):「お客様が絶対に傷を許さないと仰ってます。」
ケニ:「じゃあ、樹脂で作れ。」
閉(へい):「え?」
ケニ:「金属は生き物だ。摩擦し、呼吸する。無傷でいたいなら、生物じゃなく、プラスチックにしろ。」
トワ:「名言だな。理想は無機物に宿る。」
スチール猫:「人間もそうにゃ!心にキズがある方が、味があるのに!」
ケニの胸中で、何かが静かに切れた。
現場はもう限界。
金型は様々な視点での改修を重ね、各パンチ刃先へのコーティングも鏡面仕上げも限界までやった。
だが「無傷信仰」は終わらない。
「……無傷を求めるのはいい。
それが最初の約束なら、俺たちは命だって削る。
だがな、途中で線を引き直すのは違う。
合意ってのは、便利な時だけ持ち出す道具じゃねぇ。
約束を守るからこそ、技術も信頼も生き残るんだよ。」
ケニの呟きは、誰にも聞こえなかった。
だが、スチール猫は聞いていた。
スチール猫:「なぁケニ……もし神様が金型作ってたら、やっぱりバリ出ると思うにゃ?」
ケニ:「バリどころか、地球ごと歪んでるさ。」
トワ:「そして、その歪みが人間を作った。」
約束を守ることは、図面よりも重い。
合意をねじ曲げれば、信頼も、モノも、同じように歪む。
無傷を責めてるんじゃない。
“約束を守り抜く覚悟”を、俺たちは問われているんだ。次回―第10話・理想の残響 無傷を命じた男たち(後編)
信頼の摩擦が、現場の魂を試す。
