第9話『ピッチの幽霊、そして段曲げの祈り』

経験談

序章:ニソー電気からの召喚状

秋の光が、工場のアルミ板を眩しく反射していた。
昼下がり、ケニの机の上に封筒が落ちる。
差出人:ニソー電気。件名:「Yピッチ+0.56」。

ケニ
「……来たな。幽霊再び、ってやつだ。」

スチール猫
「ピッチの幽霊? にゃはは、またオカルト案件かにゃ?
お祓いよりマイクロメータ持ってけにゃ。」

トワ(冷静に)
「数字が狂ってる時点で、それはもう神ではなく“人の思考”だ。」

Scene 1:緊急会議 ― “変化なし”の呪文

会議室の空気は、アルミよりも冷たかった。
生産部長、品証部長、技術部長、佐倉航、ケニ、そして三羽ガラスが並ぶ。

品証部長
「4Mの変化点は?」

生産部長
「ありません。工程も、金型も、油も、何も変わっていません。
人は変わったが、そんなの毎度のことです。」

品証部長
「つまり、いつも通り……それが一番怪しい。」

スチール猫
「にゃるほど、いつも通りって言葉、
猫なら寝てる証拠、人間なら思考停止のサインにゃ。」

技術部長
「ケニ。頼む。金型を診断しろ。結果次第で報告書をまとめる。」

ケニ
「了解。……けど、今回は少し厄介だぜ。」

Scene 2:異常のない異常

ケニが分解した金型の測定結果。
パンチ、ストリッパー、ダイ、全て寸法誤差ゼロ。
段曲げの高さも角度も基準通り。

佐倉(若干焦りながら)
「主任、本当に全部問題ないですよ。
これ、どこにも異常ないっす。」

ケニ
「異常が無いこと自体が異常なんだよ。
現象が動いてるのに、図面は動かない。おかしいだろ。」

トワ
「理想が完全な時、現実は居場所を失う。」

スチール猫
「つまり、理想が邪魔してるってことにゃ? やれやれ理想のくせに面倒にゃ。」

Scene 3:佐倉、勇気のひと声

佐倉
「あの……主任。
もしかして、穴あけの時にワークが……ちょっと動いてるとか?」

ケニ
「……おい佐倉。お前、見てたな?」

佐倉
「ええ、昨日、プレスラインで。
ストリッパーが下りた瞬間、板がピタッじゃなくて、ピクッって動いてました。」

トワ
「観察とは、勇気の別名だ。
数字より、そのピクッが真実だ。」

スチール猫
「ピクッに気づく若造。未来あるにゃ。
俺ならピクッて言われたら逃げるにゃ。」

Scene 4:解析の夜

ケニは佐倉と共に図面を広げ、旧ロットを並べた。
角度、平面度、全て規格内。だが、段壁の角度がほんの0.4°違う。

ケニ
「これだ。
穴あけ前の段曲げ角度が微妙に逆に傾いてる。
ストリッパーで押した瞬間、ワークが後ろに滑って、抜いたら戻る。そして穴ピッチはプラスとなる。」

トワ
「つまり、ズレたまま穴を開け、戻る時に穴だけ置いてかれる
見えない可動――まさに幽霊の仕業だな。」

スチール猫
「幽霊もピッチも戻ってくるにゃ。ただ、場所がズレるだけにゃ。」

佐倉
「主任……すげぇ。
そんな小さな角度で……。」

ケニ
「そう、小さな角度が組織の盲点になる。
俺も昔、潰し加工で“見込み値補正”ってやつをやってた。
再現性なんてあったもんじゃない。
数字を信じすぎると、現象を見失う。」

Scene 5:三羽ガラスの乱

生産部長
「ケニ君、角度管理だの挟み込みだの、手間が増えるだけだろ。
現場を混乱させるな。」

品証部長
「そうだ。ISO手順外だ。変更管理が必要だ。」

スチール猫
「出たにゃ。安全な正義チーム。」

トワ
「保身の規格はあっても、進化の規格は無い。
それが組織の病理だ。」

技術部長(静かに立ち上がる)
「いい加減にしろ。
図面が正しいだけじゃ、製品はできない。
見えない動きを観察できる人間こそ、本当の設計者だ。」

ケニ
「……部長。」

スチール猫
「部長、今日は冴えてるにゃ。
摩擦ゼロの発言にゃ。」

トワ
「そうか? ちょっと熱膨張してるようにも見えるがな。」

Scene 6:修正と試作

ケニと佐倉は段曲げ部の構造を変更。
ストリッパーとダイで段壁を軽く挟み、
ワークの呼吸を止めない程度に固定した。

佐倉
「主任、位置決め完了です。」

ケニ
「よし。今度は、動かさないで、動きを殺す。
――それが静止の技術だ。」

試作結果:
Yピッチ 93.99〜94.02。完全安定。

スチール猫
「幽霊、成仏。ピッチよ安らかににゃ。」

トワ
「再現性とは、偶然を再現しないこと。
君ら、よくやった。」

終章:悟りのピッチ

ケニ
「金型も、設備も、材料も、全部正常。
でも、人間の見方だけがズレてた。
ズレとは、傲慢の副作用だ。
正しい寸法より、正しい態度――それが技術の真芯だ。」

佐倉
「主任……それ、報告書に書きましょうか?」

スチール猫
「いや、報告書にゃ書けない真実ってやつだにゃ。」

トワ
「悟りとは、報告書の行間に書くものだ。」

技術部長
「……よし。今日の結果、正式採用だ。
報告書のタイトルは――幽霊ピッチの退治法でどうだ?」

ケニ
「いいっすね部長。
俺たちの現場、まだ幽霊多いですからね。」

スチール猫
「幽霊より怖いのは、考えない生き霊にゃ。」

技術ノート(庵アーカイブ)

項目内容
材料A5051 t1.0 段曲げ高さ12mm
現象穴ピッチ+0.4〜+0.56mmズレ(Y方向)
原因段曲げ壁の逆傾きにより押圧時前後滑り/穴あけ後、除荷戻り
対策ストリッパー+ダイの挟持構造/段部角度・高さ微調整/前工程安定化
特徴理想ではなく現実を見ろ。
不具合は図面の外で生まれ、無関心の中で放置される。
教訓「異常なし」という言葉ほど危険な油断はない。
交差内でも、思考が止まれば、それはもう不良だ。
哲学技術とは、止まったように見えるモノの中に、動きを見抜く力。
誤差とは、心の油切れだ。気づいた時に、もう動かなくなっている。